私が住んでいる十人町の町名は、唐人屋敷を見張る役と野母崎で外国船の入港を見張る役方が10人居たことに由来することは、長崎に住んでいる人たちにもあまり知られていないようです。
 唐人屋敷入り口の四海楼ガレージから右手に唐人屋敷沿いに石畳を行くと広済寺に着きますが、この坂道をすぐ右に折れ石段を数段登ると壊れかかった石碑があります。これが野母崎町の観音寺まで続く「みさき道」の道標の第1号であり、野母崎まで7里の道に50本の道標を昔、長崎の今魚町が施主となり設置し、現在は其の内の10本が確認されているとのことです。しかし、なぜ1町内の今魚町が観音様参りの為に道標を寄進したのか、聞けば聞くほど謎は深まってきます。
 昨年初め、三和町公民館主催で「みさき道」を5回に分けて歩く会を開催されました。私は全部は行けませんでしたが、所在地図をいただきましたので残された道標10本を確認できました。たまたま、私は昨年4月より長崎市土井首支所に勤務することになり、毎日、みさき道が勤務道となりました。土井首支所管内には1本も確認されていないのが分かり、暇をみては地元の地理に詳しい連合会長さんと古地図を頼りに見つかっていない道標がないか山行を重ねました。
 また、地区の古老から、この地区には「殿様道」があってダイヤランド入り口から山越えして三和町の大山祇神社へ行く道があり、ダイヤランドの中腹に殿様が休憩した「籠立て場」がある話を聞きましたので、この「殿様道」を歩く行事を土井首地区公民館の「青少年いきいき講座」で実施することにしました。
 公式の講座ですので、いい加減な案内はできないと数回下調べを兼ねて殿様道を歩く途中、地元の方々が「ゆうこう」という小さな柚子大の黄色いみかんを食べさせてくださいました。少し酸っぱいけれど甘いレモン水みたいな甘夏みたいな味がしました。
 折角ですので正式な名前が知りたいと思い、NHKの趣味の園芸へ「ゆうこう」の木の写真を添えて問い合わせました。すると間もなくして独立法人農業技術研究機構果樹研究所カンキツ研究部から手紙が来て、四国阿波や土佐の「柚柑」ではないかと思われるが、詳しいことを知りたいと書いてありました。そこで「ゆうこう」の実物を送ったところ、『農林省ジーンブックにない品種なので「ゆうこう」について古文書に記録はないか。この「ゆうこう」の樹高、幹周、樹幅とその分布を調べて欲しい』とのことでした。
 そこで私は当初の道標探しが「ゆうこう」探しに急遽変更となり、地元の皆さんに「ゆうこう」が生えている場所を聞いていただきました。多くの方々の協力で分かったのは土井首地区を中心に小ヶ倉地区から、深堀地区、西彼三和町まで16箇所34本を確認できました。
最大の「ゆうこう」の木は幹周が1 mを越え樹高は10mもありました。
昔から「なまこ」を食べるときはこの「ゆうこう」が最適であったらしく、酢の物のために家々には必ずといっていいほど植えてあったようです。今の大人の人達も若い頃は、水筒代わりに「ゆうこう」に細い竹を刺して果汁を飲んでいたそうです。
 なぜ「ゆうこう」が探さないと分からないほど減ったのかを尋ねると、「ゆうこう」は樹勢が強く付近に植えている温州蜜柑に種を生じさせてしまうので切られてしまったそうです。
 一方、古文書の方はなかなか手がかりがありません。もともと土井首地区も昔をたどると深堀藩の一部です。深堀には中尾正美著、郷土史「深堀」が昭和62年に出版されていますが土井首や「ゆうこう」のことには記述がありません。また、旧大村藩の地域については、大村藩が完成させた大村郷村記がありますが、私まだ読破していません。
 結局、今までのところ、「ゆうこう」がいつ頃から食べられるようになったのか、古文書による裏付けはありませんが、同研究所によるとザボンと柚子が自然交配して1 品種に固定化したのではないかとの推測です。
 ザボンは中国かマレー半島が原産で長崎の家々に植えられていましたし、貝原益軒の「大和本草」(1709年)には長崎にザボンが多いとの記述があるのですから、その以降に発生したものと思われます。
 今年の公民館講座は「殿様道」パート2で竿浦町から深堀町への山道ルートを山行することにしています。古地図でもはっきり山越え道があり、先日、連合会長や三和町史談会の方々と歩いてみましたが、道筋の入り口と出口、中ほどの3か所にお地蔵様がありました。竿浦側から8合目ほどにあるお地蔵様には首がなく、台座には文政4己11月14日、竿浦邑山口左五右衛門、山口八百丞の文字が刻んであり、昔の古地図道とも合致する場所ですのでこれが「殿様道」の山道ルートと推定できました。しかし、このルートにも道標は見つかりませんでした。あと8ヶ月、停年前には何とか道標を1 本でも見つけたいものです。
(長崎歴史文化協会 古文書会会員)

風信

雪の降る寒い日の朝、純心大学修院の老シスターより、「三ッ山の雪の下にあった蕗の薹ですよ」
とのお便りと一緒に、ほんのりとした蕗の薹をいただいた。
長崎のランタン・フェスティバルは大成功でしたね。特に子供達には古代怪獣より馬に駝鳥・羊
などと実物大の美しいランタン群は大人気であったし、中国雑技の数々には毎年の事ながらただ
ただ驚かされることばかりであった。
長崎刺繍ルーツを訪ねる中国の旅、好評で今年は其の第2回を次のように開催する。3月28日より4月1 日。開封刺繍学院、鄭州・上海博物博見学。団長嘉勢照太、顧問越中哲也。参加希望者は事務局本村まで。(TEL821-1540)
柳川瀬高の十時寿徳先生著の「善き師・よき友」を御恵送いただいた。推薦文は松永伍一先生であり「人(妙香人)の一生は台本のないドラマ…」と言われている。そして私は死刑を命ぜられた人と十時先生との会話には大いに引きつけられた。(福岡・海鳥社刊)
長崎文献社の本田取締役編集部長よりアーンズ博士著の「長崎居留地の西洋人」をいただいた。アーンズ博士が最初に長崎に来られたのは昭和49年であった。以来日本史を専攻され現在はウィスコンシン州立大学教授をされておられる。この本は1859年プロテスタント宣教師Williamsの長崎来航に始り、最後は戦後のニプロさん、デルノア中佐に終っていて大いに参考になった。
(長崎文献社刊)